幼少期

自分のメンテナンス方法は非常に大切なんだと。

ここ29年間生きてきて、とてもしんどいし苦しいし、誰かに首をしめられているかのような感覚。

はじめましてのもう一人の自分が
暴れ出した感覚といえばいいのだろうか。

暴れだすと、なかなか止まらない。
投げだしたくなると死にたくもなるし、消えちゃいたくもなる。

きつすぎて、ヘルプラインを旦那にし少し気持ちが落ち着く。

平常心に戻り、なんてことをしたのだと一人大反省会が始まり、長いときもあれば子供たちがフェイドアウトしてくれるときもあるが、なかなか終わらないときもあるのだ。


昔から負けず嫌いな私は、友達に嘘をついてまでも自慢をしてみたり、空想を真実のように話してみたりがとても多かった。

幼き頃からお母さん、お父さんの怒鳴り声、泣き声、物が壊れる音、壁にパンチする音、ガラスの破片が床に飛び散っていた事を明確に記憶している。

一ヶ月に一度や二度ほどお酒を飲んで帰ってくる父。大声で兄の名前を呼び、正座をさせる。私は女の子だったからか、
父の顔色をみるなり、酔っ払っているお父さんの機嫌を伺うのだ。

よし、今日は大丈夫だった。安心して眠れる日もあれば、あらら。今日はお母さんもお兄ちゃんも泣いている。怒鳴り声を張りあげている父。止まらない。憎しみが止まらなかった。朝が明るくなり、そのままオバちゃんの家へ車に乗り込み一週間ほど学校に行けない日なんて、ザラにあった。

その頃からだろう。子供は無力だ。絶対あんな大人にだけはなりたくない。小さいながらにして強く思った。

『お金がない。お金がない。』と常に口にしていた母の口癖を聞いていた。
お金さえあれば母の涙が止まるのだと。
お金さえあれば母の笑顔がみれるのだと。そう感じていた。

早くお金を稼ぐためには何をしようかと試みたのは、歌手になること。
歌が好きな私は歌手になればお金が稼げると安易な考えでオーディションを受けてみるが、どれもいいとこまではいかず、挫折を覚えた。

それでもカラオケ好きなお母さんは私が歌うと喜んで聞いている。『うまいね〜。またオーディションうけてみなよ〜。』と。すごく自信になった。


人前で歌うことに気持ち良さを覚えた私は16の時にクラブでサイドボーカルとして、小さなクラブで歌わせてもらったり、兄がイベントを主催する場所で歌ってみたり、とても楽しかった。


歌でお金を稼いだことが一度もない私は、次に試みたのは水商売だった。
効率よく稼ぐには、やはりその手しかなかったのだ。


全力で周りには嘘をつき全力で働いてみた。すると、今まで稼いだことない金額をぽんと稼いでしまったのだ。


母親にはじめてお金を渡したとき嬉しかったことを未だに覚えている。
私の妹が障害を持っていることもあり、
そこにかかる多額のお金をかき集めるのに必死だった。
そのときにお金は人に幸福を与えるのだと感じた瞬間だった。


妹に目を向けることが多い母は、楽しそうに新しいお父さんと仲良さそうにラブラブしているのをみると、お母さんを取られた感が半端なかった。が、お母さんが笑顔の日が多くて、あったかく包みこんでくれる新しいお父さんに感謝の気持ちの方が大きかったのを覚えている。


ある日その父が鬱になってしまい、働けなくなってしまった。
お母さんは働きはじめ、やれることを家族みんなで協力した。
いつもの父が泣いている。
いつもの父が嘘みたいに活力がない。
嘘でしょ。何度も空回りする父をみるのも、ガンバって支えようとする母をみると苦しくって、つらかった。

なによりも私のパートナーである彼が、お父さんに寄り添ってくれた。
『おとうさん、大丈夫ですよ。』
『おとうさん、俺がそばにいますから。』と。


なんだろうか。彼は心の芯の部分がとっても、あったかくて、じわじわしている。そう感じた。
彼のじわじわの部分は
妹の小学校卒業のときに
連れてったディズニーランド。

足が悪い妹のために車椅子を一日中押して歩いてくれた。

そこから彼の愛の深さを知ってく
こととなった。

どんなときでも、彼は真剣に向き合ってくれた。ときに一緒に涙を流してくれた。

彼の優しさや愛を知るたびに、こんなの夢だ。こんな私が感じちゃいけない。と自分を責めはじめる。

もっと憎くなればいい。
苦しめばいい。結局、わたしは幸せを
感じられないんだと勝手に思い込んでいたのだと、ようやく気づいた。

小さな私が幼き私が泣いている。
おもいのままに感じてあげよう。
泣いてあげよう。
手を差し伸べてあげよう。
ありがとうを伝えよう。

そう心に決めた。





お弁当作り

朝からガスレンジのボタンをパチパチさせ、卵焼きのフライパンを温め、卵を3つ割り、少しの水と出汁をいれてジューと流し込む。
弱火にし、私の朝ははじまるのだ。

それから慣れた手つきでご飯を詰めて
大きな梅干しを真ん中にどんと埋める。またその上から白胡麻。たまに海苔をふりかけたり、おかかだったり、大概その日の気分で決める。
反対側のコンロであったかい汁物。
味噌汁か前の晩の残りもんか。その日の気分で決める。これは作り手の特権だ。


片方の手では、子供たちの朝ごはん作りにとりかかる。何が食べたいか。食べたくないか。を問いかける。食べたいのであれば、ある食材を伝えオーダーを待つ。注文に答えられれば取り掛かる。



残された時間とママのやる気が合致しない限り、注文は自然と却下となる。注文したものすら忘れている朝の身支度を終えた子供たち。ピカピカに食べる日もあれば食べない日もある。


そんな日々を重ねてく中で、量はいつもより少なめでいいんだね。とか、やたらフルーツを食べたがるね。とか、ヨーグルトは洗いものが少なくて、おりこうさんメニューだね。とか。
料理長ママとして日々成長させてもらってることに気づく。



運び終えた手で次の工程にとりかかる。お気に入りコーヒを淹れる
ゆっくりとコーヒの香りを感じ、あつあつのお湯を注ぐ。粉ががぶくぶく泡立つのをじーっと見つめ、好きな音楽を流しながら優雅に淹れる日もある。
また、どこか忙しい気分であればキッチンの片付けをしながら、お湯を注ぎ淹れる、そんな日もある。


どんな淹れ方にせよ『ありがとう』と気持ちを込めながら丁寧にマグカップを手にする夫の姿をみると、無事に朝を迎えられたという気持ちでホッとする。


あつあつの卵焼きに、すこしの野菜とおかず。忘れちゃならない彩り。
バランスを整え、蓋をしめる。チェックし過ぎる日は箸を入れ忘れている。それがバロメータになる。
やんわり申し訳なさそうに『箸が入ってなかったよ』って注意してくれた日も前はあった。
日に日に大変だろうと察してくれた想いからか何もなかったかのように接してくれる彼がいる。


残さずに気持ちいいくらいにピカピカにしてくるお弁当箱。洗いものまでしてくれるまでになって助かっている。


何も続けられなかった私が彼がいてくれたことで、お弁当作りを続けられたこと。ふとしたときに届くメール。

『お弁当ありがとう』の文字をみると、嬉しくなっちゃうのは事実そのもの。


どこか彼の前だと素直じゃない恥ずかしがりやな私の指がそう打ち込んでいたのは、いうまでもないだろう。


『食べてくれて、ありがとう』


そのやりとりが何よりも私の生きる力となり、明日への糧となる。